〜東京ビッグトーク〜石原知事と議論する会

平成24年6月8日更新

「子供の耐性をいかに培うか」〜教育再生に向けて東京から考える〜
平成24年度第1回「〜東京ビッグトーク〜石原知事と議論する会」


議事概要

テーマ

「子供の耐性をいかに培うか」〜教育再生に向けて東京から考える〜

日時

平成24年5月11日(金曜) 16時00分から17時30分まで

場所

都庁大会議場(新宿区西新宿2-8-1 都庁第一本庁舎5階)

出席者(敬称略)

写真:石原知事と議論する会の様子 石原慎太郎 東京都知事

◆コーディネーター
 須田哲夫 フジテレビアナウンサー

◆コメンテーター
 川淵三郎 東京都教育委員、公益財団法人日本サッカー協会名誉会長
 工藤定次 青少年自立援助センター理事長
 田上時子 女性と子どものエンパワメント関西理事長
 戸塚宏 戸塚ヨットスクール校長

 公募都民等 620人

発言要旨

 以下は、出席者の発言内容を生活文化局広報広聴部で要約し、取りまとめたものです。
 ※文中、敬称略

○須田(コーディネーター)
 本日は「子供の耐性をいかに培うか〜教育再生に向けて東京から考える〜」、これがテーマになっております。子供の耐性、これは堪え性ですとか、我慢強さとも言えるんですが、そうした様々な環境の変化に適応する能力をいかに育てていくかという課題につきまして、皆様と一緒に議論を進めてまいります。
 さて、これから議論に入っていくわけですが、本日のテーマについて、あらかじめ都政モニター400名以上の方々からいろいろな意見をお寄せいただいています。多数の方が子供の耐性が落ちている。我慢、忍耐がないのが目立つとお答えになっております。また、これも皆さんお感じになっているのではないかと思うんですが、今の若者に元気がない。安定志向、内向き志向の傾向が進み、何かに挑戦しようという気概に欠けているということも、私、テレビの仕事をしていましてよく耳にいたします。
 一方、国はと言えば、国際社会の中で、特に中国、韓国といったアジアの国々が急激な成長を遂げる中、元気のない日本の姿が今浮かび上がっているのが現実です。低迷を続ける日本が生き残りをかけて取り組むべき最重要課題は、次代を担う逞しい若者をいかに育てていくかということに間違いないと思います。まず、冒頭、石原知事からお願いします。

○石原知事
 今のお子さん達の実態については、もう司会者が述べられたとおり、そのとおりだと思うんです。ですから逆に今日はこの優れた講師の皆さんにいろいろなことをお聞きしたいんです。みんなと一緒に。一つだけ問題提起をしますが、人間の社会の中で、いかなるジャンル、いかなる領域においても、人間の能力の優劣の差というのは十分認められるし、あり得るし、あっておかしくないと思うんですね。ですから、スポーツも科学の社会も、芸術の世界だって、能力のない、発見のない人間というのはどんどん置いていかれて、だれも尊敬されない。
 だけれども、教育の世界だけは不思議ですね。人間の優劣を認めないんですね。これは私、とってもおかしいと思う。これが現代のこの教育界の変な通念になっていて、小学校ですか、100メートル競争のときに、先生がゴール寸前に走ってきた生徒を並ばせてみんなで手をつないでゴールインするという。これはもうナンセンスというか、ばかみたいな話だと思うんですが。
 これについて、皆さんの考えを伺いたいのと、自我ができていない子供というものは、もちろん人格はありますけれども、強烈な自我があるわけではないので、それを育てていくために、体罰というんでしょうか、これは不可欠だと思いますね。体罰も一種の刷り込みだと思うんですよ。子供に対する刷り込みがいかに必要かというと、例えば九九算ね。これインドなんかではエリートの学校では25まで掛け算を暗記させる。これは掛け算ではなしに暗記ですよね。門前の小僧習わぬ経を読むと同じように、暗記するわけです。これはかなりつらいかもしれないけれども、それを強いる。強いることで私は算術なり数学の基本ができていくと思うんですが。この刷り込みというものを徹底させるには、強い強制がいる。その強制は一つの体罰にもなってくるのではないかと思うし、その他この他、いろいろな基本的な矛盾が今の教育を支配しているような気がしてならない。そういった問題を私は非常に感じていますので、そういった基本的な問題について皆さん方のご意見を伺って、東京のこれからの教育指針の参考にしたいと思っています。皆さんよろしくお願いいたします。

○須田(コーディネーター)
 まずは知事から、今の教育に対する知事が常日頃感じている疑問点、そして体罰についても触れられました。もちろん、体罰についてこの壇上の4人の方々からいろいろなご意見があるのではないかと期待しております。
 次の方をご紹介し、提言をいただきたいと思います。サッカーJリーグの生みの親である日本サッカー協会名誉会長川淵さんです。川淵さんは東京都教育委員として、東京の教育の充実に尽力されています。

○川淵(コメンテーター)
 今ご紹介いただきました川淵です。教育委員という立場になると、とても固くなるので、日本サッカー協会のキャプテンとしての気持ちで今日はしゃべらせていただきたいと思います。
 実は6年前、ドイツのワールドカップの直前ですが、このビッグトークで石原都知事と一緒に教育に関するディスカッションをさせていただきました。そのときに自殺の連鎖、不登校、いじめ問題が全国的に発生しまして、それらの問題に対する話をしたわけですが、その帰り道、サッカー協会は年間、延べ何百万人という子供達にサッカーを教えている。しかし、サッカーの技術を教えているだけであって、精神的なもの、道徳心、フェアプレー、そういったもの、社会性を持った人間に育てるようなことを何もやっていない。やはり人間性を育む活動をすべきだと思って、2007年4月に「こころのプロジェクト、夢の教室」を立ち上げました。これは正規の学校の授業の中で、夢を持つことの大切さ、挫折を乗り越える勇気、失敗を恐れない気持ち、目標設定してそれに取り組む努力、そういったことをJリーガー、あるいはOB、野球、体操や陸上競技のオリンピック選手も含めて夢先生となって、日本全国の47都道府県の学校を訪問するものです。今年で6年目になりますけれども、約3,000校、10万人以上の子供達にその夢の教室をやっています。
 夢の教室では、挫折をしたとき、失敗したときの選手の対応、反応、そういったものに子供達が一番大きく反応します。そして夢先生との手紙の交流を見ていると、まるで反応のないように見えた子供達がこんなことを考えているんだ、こんな夢を持っているのかって驚くようなことっていっぱいあるんです。子供達には刺激を与えることで社会性が身につく。多くの人の体験を通じて、努力することの大切さ、あるいは夢を持つことの大切さというものを伝えていきたいと思っています。
 そういった中で、先生によって随分クラスの雰囲気が違うということも感じます。初めやる気のないクラスもゲームを通じて、一体感を持って頑張ろうという姿勢が出てきて、校長先生が見てびっくりされることも結構多いんです。子供は四六時中、担任の先生に習っているわけですが、いろいろな刺激を与えることで、表情にはすぐ出ないけれども、内部で感じていることってすごくある。そういうことこそが、この耐性をいかに培うかというところに直接関係はないのかもしれませんけれども、価値あることだと思います。また達成感や満足感というのは、トップアスリートだけが感じるのではなくて、運動能力のない子、例えば前方回転ができない子を先生が一生懸命教えて、その子供が前方回転できたときに、その先生と子供が抱き合って喜ぶという、そういう運動能力の低い子にも達成感、満足感を与えられるのはスポーツなんですね。
 ルールを守る、一体感、連帯感、人を思いやる気持ち、社会性に大切なそういった要素を培えるのは、やっぱりスポーツが一番大事だというふうに私自身は思っています。

○須田(コーディネーター)
 では次の方をご紹介いたします。田上さんはNPO法人女性と子どものエンパワメント関西理事長として、親や子供の育ちに携わる人を対象に、全国各地で研修会や講演を行い、子供への暴力防止のための普及啓発や、人材育成に取り組んでこられました。また、田上さんはスター・ペアレンティングという、独自の親教育プログラムを開発され提唱されているんですが、若者を鍛え育てるための方法、この方法、どのようなお考えをお持ちなのか、まず聞かせてください。

○田上(コメンテーター)
 田上時子です。よろしくお願いします。私、1988年からカナダで社会教育をずっと勉強してきて日本で教えるつもりが、東京・埼玉で4人の幼女が殺害されて、メディアはそれを東京・埼玉幼女連続殺人とつけました、別名宮崎事件です。帰ってきてその事件に遭遇して、日本の子供の問題にかかわるということになったんですね。
 そのときに、メディアも含めてだれもああいう事件を二度と起こさないためにどうしたらいいかということが出てこないんですよ。何が出てきたかというと、「知らない人について行っちゃいけない」とか、「一人になっちゃいけない」とか。でも、子供達に「何々しちゃいけない」という言葉は余り通じないんですね。否定語というのはなかなかイメージにできない。それでエンパワメントという言葉を使ったんです。
 ちょうどその後から子供の虐待というのが社会問題になりました。子供の虐待が社会問題になってくると、今度は子供達がいろいろな事件を起こし出します。そのときにいろいろ考えたのはやはり子供の問題というのは、こんな子供にだれがしたという、やっぱり親の問題だろうと。ですけれども、私は親を責める気にはならなかったですね。ちょうど私の娘世代なんですけれども、子供を取り巻く環境は激変しています。そして親世代というのは確実に変わっています。私自身が親をやっていて感じたのは、子供を産んだからって親って何なのかわからなかったんです。わからなかったらば、学ばなくてはいけない。それで親教育、スター・ペアレンティングというのを紹介しました。
 子供の虐待をずっと見てくると、やはり親は虐待をしてしまう背景があると。今日の耐性にも関係あると思うんですけれども、子供は生まれ持った気質というのがあるんですね。皆さんお母さん、お父さんならご存じだと思いますが、兄弟が3人いると同じように育てても同じような結果が出ないですよね。だから親が家庭力として親力として使えるというのは、100パーセントではないと。つまり持って生まれたものはあると。例えばある子には10分かかるが、ある子には1時間かかる。子供の耐性って言ったときに、やはりその後ろにいる子供の耐性を培うための親に耐性があるのかどうか。これものすごく大きなことですよね。子供達がいつもお母さん、お父さんから、「早くしなさい、早くしなさい」と言われてね。早くしなさいということは我慢強くなくていいから早く結果を出しなさいということです。そういうことで、なかなか蓄えられない。だから親教育をしようと。
 もう一つ、親教育をやりながら、ずっと何を言ってきたかというと、やっぱり「育児の社会化」が進む必要があるだろうと思っています。お母さんやお父さんが家庭力の中心ではあるけれども、それを手伝う、サポートするシステムなり、だからこそNPOがたくさんあるのでしょう。親力がとても問われる、子供の耐性と言うときには。だけれども、親だけを責めてもしようがない。

○須田(コーディネーター)
 お隣の方、ご紹介いたします。工藤定次さんです。工藤さんは、NPO法人青少年自立援助センター理事長として、不登校や引きこもりなどに悩む若者達の自立支援を長年サポートされていらっしゃいます。

○工藤(コメンテーター)
 工藤です。僕は阪神淡路から東日本までの4つの大きな災害すべてにうちの連中を連れてボランティアに行きました。そこで得たものというのは極めて大きい。僕も耐性、堪え性がないなんて思っていたんだけれども、その場面が与えられたときに、彼らは自分の役割というものが初めて人に対峙して、受ける側の感謝の念等によって、自己確認をしたというところでかなり伸びる。これは、本人達にそういう局面をどういうふうに与えるのかという問題があるんだろうと思うんです。
 今回の東日本を4日後に入ってずっと見ますと、これはちょっと今までのとは違う。これはどうやったら再生するんだろうかと考えながら、あの中で人間というのはどこまで耐えられるのか。しかし、子供も大人も含めて、かなりあそこの中で整然と耐えた。これ、僕は日本のかなり美徳であると思っています。ですから耐性がなくなったのか、耐性が表面に出ていないのかという問題で言えば、表面に出す手法として持っていないのではないか。今までの日本という歩み、ある種、高度成長期からなのかもしれませんが、幸福という道筋を余りにも追求してきたのではないか。我々は子供達、あるいは青年達に、希望あるいは夢みたいなもの、それをどう培っていくのかという方向に転回する時期に来ているのではないか。耐えるということは前に光があるということを前提としたところ、十分に耐えられる。幸福というのは積み重ねても砂上の楼閣のように、次から次と出てきてしまう。それは果たして求めていったからといって、人間本来の核になっていくようなものを培うのかと。
 この前、ニュースで就職できない若者が相当数自殺をしていると。たかが就職できないで自殺していく。そのときに、はたと思うんですね。一つの道が閉ざされたら、第2、第3、第4の道を考えられるような思考形態、行動形態をつくったのかと。それこそ生きていくときのかなり大きなエネルギーを発露としていくようなものだろうと思っているんです。単発的な問題で一つの方向性を組み立てていくということが、いかに不幸な時代をつくったり、過てる時代をつくってきたかというのは、歴史が証明しているところであります。
 今後、そういったものが繰り返されていくのかどうか。先ほど川淵キャプテンがおっしゃった夢みたいな問題を、総合的にもっとあらゆる面の中で夢を形成していくような行動、それを活動としていく必要があるのではないか。僕は戸塚さんとも恐らく石原知事とも考え方は反対ですが、でも大きなところで子供達何するんだいというとき、これ日本の来し方行く末ですから、そのとき中心課題は一体何なのかというと、やはり希望という問題、これは実は東大で希望学をやっている人々がいて、おっと最初思ったんです。これはもうちょっと成熟度を持って注目に値するものだと思っています。

○須田(コーディネーター)
 では、お隣に参ります。戸塚宏さん。戸塚さんは1976年に戸塚ヨットスクールを開校され、以後、非行や不登校といった情緒障害児の更生に取り組んでこられました。私も30年近く前でしょうか、取材のために体験入校し、厳しい指導を目の当たりにした経験があります。肉体的、精神的な文明病は、脳幹の虚弱により生ずるという、戸塚さん自らが考えた脳幹論を背景として、厳しい教育を実践されています。今日のテーマである「子供の耐性をいかに培うか」ということについて、まずはお考えを聞かせてください。

○戸塚(コメンテーター)
 トレーニングしかないですよね。まずそれがわからないといけないです。今朝ですか、きのうだったか、テレビでやっていた、子供に勉強しろというのは優しい虐待だと。みんなで抗議しなくちゃね。躾も何にもできやしない。子供の意に反することをやったらすべて虐待だという。だれがこんな社会つくってしまったんですか。
 うちにやってくる子供を見ているとよくわかる。そこの家庭、必ず相対的な父性の弱さ、要するにかかあ天下ということ。お父さんが弱いかお母さんが強過ぎるか。あるいは母子家庭か。100パーセントそれに当てはまってしまうんですよ。ということは父親の教育のメカニズムを受けていないということ。教育というのはむしろ男がやるべきことであって、女が口を出してはいかん。ところが今の男は弱くなってしまって、戦後。お母さんの後ろに隠れてしまうんですね。お父さんがそれこそ一度でも学校に行ったことがあるのか、自分の子供が教育されている現場に。ほとんどの人はないわけですよ。みんな何か起こるとお前の責任だと言って、お母さんに押しつける。ここがまずかったのではないのか。
 体罰の問題が出ました。女は体罰が嫌い。男はやりますよね。絶対にやらんという、それは男じゃない。体罰反対という意見、体罰は悪だということ、そういう意見を持っておられる方が大勢おられますが、あなたがつくった意見ですか。もしそうだったら、意見のつくり方、帰納法と演繹法しかないですよね。帰納法で、体罰について意見をつくれるところ、日本ではうちしかないでしょう。実際にやらないとできないんだから。ほとんどの方は演繹法でつくっているわけです。演繹法というのは理論の組み合わせだから。では体罰の定義は何なの。もっと難しいのは善悪の定義は何ですか。善悪の定義をできない人が善悪を判断してはいけないですよ。戦後日本は善悪の定義ができなくなったのではないですか。何しろ日本はマスコミがきれいごとばかり言ってごまかす。きれいごとで教育すると、叱るより褒めろというやつね。子供はすぐわかるから、先生は嘘つきだと。自分が叱られるべきときに褒めるんだから、嘘に決まっている。嘘つきはだれも信用しない。あるいはよくて太鼓持ちですよね。一生懸命おだてる。太鼓持ちはだれも信用しない。だから先生は仰いでも尊くない。信用できない人達なんですわ。そういうところに自ら落とし込んでいるわけですね、先生は。これが教育学。だったら教育学間違っているよ。自分達が正しいと言うならば、ちゃんと成果を上げて見せないと。うちにやってくる子供達は一体何なのか。一生だめなんですよ。学校の先生が、文部省が、子供の一生を奪ってしまっている。やめてもらおうじゃないですか。安心して学校に子供を預けられない。変わってもらおうじゃないか。文部省の役人は全部首にしようじゃないか。きれいごと言うところ、日教組ですよね。全員やめてもらおうじゃないか。
 そこでだめにされてうちに来た子供、もう本当に底辺の底辺ですよ。見ていたら、その理由はすぐわかるんです。褒めて伸ばせの悪いところが出てしまっているんですね。叱ったらまず全員が伸びるんだけれども、叱るより褒めろだと必ず落ちこぼれが出る。半分以上落ちこぼれになる。

○須田(コーディネーター)
 そろそろ議論に入らせていただきたいと思います。今日のコメンテーターの方々の考え方、基本的な考え方、おわかりいただけたかと思うんですが、まず、知事、皆さんの今までの発言を聞いた感想からお願いできますか。

○石原知事
 5人のスピーカーがてんでんばらばらなことを言っている感じがして、これ須田さん、まとめるのは大変だろうと思うんですけれども、須田さんがさっき戸塚さんについて言われた大脳生理学、脳幹論、これとっても大事な言葉なんです。これは何も戸塚さんの発明ではないんですね。僕は戸塚さんから習ったことの受け売りですけれども、コンラート・ローレンツという動物行動学で、これでノーベル賞をもらった立派な学者ですけれども、この人の脳幹論の中に、非常に端的に、子供のときに肉体的な苦痛を味わったことのない人間は、非常に長じて不幸な大人になる。肉体的苦痛というのは、何も虐待とかそういうのではないですよ。例えば体罰食うとか、親にぶたれるとか、立たされるとか、それから嫌々お使いにやらされるとか、そういう子供の意思に反して、子供が我慢しなくてはいけないアルバイトもさせられる、そういうのも含めてですけれども。ローレンツが言っているのは、人間の頭の中で、小脳、大脳、いろいろありますね。一番大事なのは脳幹なんですよ。脳幹というのはとっても大事なところで、これは人間のすべての感情をここでつかさどる。だからこのやろうと思ったり、あの人好きだなと思ったり、痛いなと思ったり、寒いなと思ったり、暑いときに汗が出てきたり、それから物事をやって達成感で、ああできたという満足みたいなものは、全部脳幹なんです。これがこの頃の若い人は非常に貧弱になってしまって、では同じ脳の中でどこが発達しているかと言ったら、大脳、小脳なの。
 それでこれは戸塚さんがうまいこと言ったんだけれども、なるほどなと思ったのは、リンゴの木の幹が細いくせに、変なぐあいで、天候の加減か何かでやたらに実がなってしまって、リンゴを育てているお百姓さんは豊作で喜ぶかもしれないけれども、幹が細いのに実がなり過ぎると、台風が来たりすると簡単に幹がぼんと折れて、実が全滅してしまう。私、この頃の若い人はそうだと思いますね。幹が細い木に、なり過ぎている実というのは何かというと、これ情報です。情報。これは情報過多なんだ。情報過多でその情報の整理も自分でできなくて、他力本願で、情報の整理を情報にしてもらったり、情報の評価を情報にしてもらったりするんだけれども、そういう人間ばかりになってしまった。変な情報ばっかり、こんな情報というのはあてにならないんだけれども、脳幹がしっかりしていないものだから、嫌な事件が起こったり、嫌なものに遭遇したりすると、堪え性がないから、これも戸塚さんのレトリックなんだけれども、つないでいる船の岸壁が低いから簡単に波が来れて、中につないでいる船が壊れてしまう。そういう人間ばかりになったんですよ。確かに今の若い人を見ているとそうですな。本当に情報が人間をゆがめてしまった。これは文明の進展で仕方ないんだけれども。わけのわからない情報の要するに氾濫の中に、人間の本当の感性、本当の強さ、つまり感性って強さの基本ですから、そういったものが埋没してしまって、人間がみんなのっぺりして、本当の強さがなくなってしまった。だれがこうしたかといったら、いろいろな理由があるでしょうよ。親も悪いし、教育も悪いし。だけれども、これやっぱり文明の一つの結果であって、これをどうするかと言ったら、やっぱりなかなか難しい問題ですな。

○須田(コーディネーター)
 工藤さんいかがですか。

○工藤(コメンテーター)
 堪え性がないという状態の子がうちに来ますから。

○石原知事
 工藤さん、強い夢って言われたけれども、夢というのはやっぱり強い自我がなかったら持てないんですよ。つまり自我というのは情報に頼らない人間のことなんだ。

○工藤(コメンテーター)
 僕のところは戸塚さんよりも、多分もうちょっと長目に共同生活をして、訓練をしています。もう40年近くやっておりますが、戸塚さんが成果を上げるといえば、僕のところも成果は上げている。ただしうちは基本的に体罰ではない、もう少し厳しさをどう教えるかという問題は頭は使っております。剣道でも何でも、達人というのは本当に切り合うのか。切り合わなくても力量の差を伝えられれば、おのずから争いは避けられる。殴る、あるいは何らかの形をしなければいけないということは、実は達人ではないんだなと。気とあるいは一つの身体的な発信の仕方によって、相手に対して伝える、体罰を使わなくても伝えるということは十二分にできると。僕は体罰というより、子供の躾として親は殴るということは必然的にあると思っています。それはやはりこれは触ってはいけない、これはやってはいけないという、それを超えてしまったときにどう伝えるのか。言葉だけでは十分に伝えないときに、親は躾としては体に覚えてもらうということは必要不可欠だと僕自身は思います。これは虐待ではなくてどう伝えるかという問題の成長のプロセスの問題だと思っておりますが、ある一定の人格が形成したらそれは必要がないというふうに僕は思っています。
 体罰がなぜゆえにまずいのかという場合の問題は、体罰をする側がいつも高位、高い位置にいるからです。これは権力と極めて強く結びついたときに、実は暴走してしまう危険性を多くはらんでいる。僕はそれをやるんであれば、その危険性をどういうふうに除去していくべきなのかというところも考えて、僕は体罰はいけないとは思わない。ある部分によっての人々にとっては、サバイバル的な問題の極限みたいなものを一つの訓練機能に使うということは、僕は戸塚さんの手法として認めないわけではない。そういう人がいるということと、全体にそれが通用するということは別の問題です。

○須田(コーディネーター)
 田上さんはどんなお考えをお持ちですか。

○田上(コメンテーター)
 工藤さんはある一定の体罰は認めると言われますが、私は体罰に頼ってしまうと親としての想像力というんですかね、スキルというのか、知恵がないと思うんですね。私も娘がいまして娘に奥の一手みたいで手を上げたことはあります。でもそれは自己満足であって、娘にそれが伝わったかというと、それはとても疑問ですし、あえてお話しさせていただくとすると、子供の虐待に関してはだれもそれはいいとは、演台にいらっしゃる方も皆さんも言われないと思うんですね。では、虐待はいかんけれども、ある程度の暴力は許されるという、そのある程度の暴力というのはだれがどう決めるのかというのは非常に疑問があるんですね。虐待はどうしてだめかということはもう皆さんもご存じですし、その結果として被虐待児というのは、いろいろな虐待を受けた年代をいかんにして、その後の人間関係はすべて暴力です。被虐待児で施設に入っても、その中でとても暴力的になるとか、愛着イコール暴力、つまり原風景が暴力ですからね。
 もう一点は、今言ったように、ある程度の暴力が許されるとなると、本当に親の知恵に工夫がなくなるという。それで奥の一手と言うならば、やっぱり使わない方向で、絶対使わないんだということをある種覚悟することがあっていいのではないかと思うんですね。戸塚さんのところで世話になった親御さんもいらっしゃることを全否定はしません。だけれども、やっぱり暴力を一切使わないんだというところをどこか覚悟をして、その躾の仕方とか、それから教育の仕方とか、先生のあり方、いろいろなコミュニケーション方法であったりとか、運動を通してとか、いろいろなことを工夫するということを幅広く持つということにシフトするといいますか、そういう意味では私は体罰はある程度も含めて、全くしないというところに立ちたいと思っています。

○須田(コーディネーター)
 では戸塚校長、ぜひお願いします。

○戸塚(コメンテーター)
 言葉は一つ一つはっきり使わないと。力と暴力は違う。力はハード、暴力はソフト、力の悪い使い方が暴力。力そのものは本来、善。だから正しく力を使えばいい。ハードとソフトの混同がむちゃくちゃあるんですよ。特に教育の世界においてですね。先ほど希望の話が出たですね。では、希望とは何なのか。もう一つは、希望を持つ能力、希望を持つ能力があるから希望が持てるんだから。その能力をよく解明して学校はそうすべきではないか。今、みんな将来に希望が持てないようになってきているわけだから。
 もう一つ、命の大切さという重要な問題が出てくるんですね。秋葉原で7人殺してしまったか、どうして彼がそんなことができたのか。我々はできないでしょう。彼は自分の命が大事じゃないんですよ。だったら、人の命はもっと大事じゃないんです。だから平気で殺せる。ああいう事件を起こさないようにするためには、まず自分の命が本当に大事、生命力が強いということです。そういう能力を持たせないといけない。だったら、どうしたらそういう能力を持つことができるのか。それが教育じゃないんですか。

○石原知事
 川淵さん、スポーツでのしごきの効用というのを、あなた大ベテランだし、それについて教えてください。

○川淵(コメンテーター)
 例えば相撲の稽古、最近も貴乃花部屋の稽古を見に行きましたけれども、昔の相撲部屋のしごきとはまるで違うけれども、稽古そのものがすごいですね。初めて見た人はきっとびっくりしますね。こんな真剣に激しい大怪我しそうなすごい練習するのかって驚きます。でもそういうものがなければ、より上のレベルには上がっていけない。第三者から見ればそれはやっぱりしごきに近いこと、しごきをやらない限り、超一流にならない。今、内田選手がドイツに行ってこんなことを言っていました。1本400メートルのランニングをする。普通ならそれを5本とか10本とかと言うんですね。ところが監督は何本って一切言わない。選手にとってみれば目標がなくていつまで走らされるかわからない。こんなつらい練習はない。それを1時間半ぐらいやらされるらしいですけれども、これはまいっちゃいますよね。日本人はここまではやりませんね。
 そういう意味ではスポーツのトップアスリートというのは、しごきに近いものを、しごきそのものと言ってもいいのかな。しごきという表現が適切かどうかは知りませんけれども、そういうものを乗り越えた選手のみがやっぱり超一流にはなっていますね。

○須田(コーディネーター)
 そのあたり、自分自身の中で強い大きな目的意識と、それから教えている人間との信頼関係というのも大事ですよね。

○川淵(コメンテーター)
 最低それがなくては続きませんね。僕は東京オリンピックに出たんですが、合宿で毎朝早く起きて、ランニング、僕は大嫌いでしたが、アップダウンの多いクロスカントリーに耐えて3カ月、最後はメンバーに選ばれたんですけれども、途中で投げ出しちゃもう終わりですからね。負けてたまるか、絶対に選ばれるんだぞという、強い気持ちがあるから耐えられて、今まで来ているということですね。

○須田(コーディネーター)
 戸塚校長、もう手遅れだという意見も聞くんですが、堪え性、日本人の中によみがえらせるには、若者に何が必要ですかね、今。

○戸塚(コメンテーター)
 意志の強さですよね。一昔前、学校で先生を刺しちゃうナイフ少年というのがはやったことがありますね。あれは非常に単純、意志が弱いから。

○石原知事
 意志の強さというのは、大脳生理学で脳幹の強さなんですよ。これはもう要するに二足す二が四と同じようなもので、基本的な原理なんだ。みんなそれ知らないんだ。

○戸塚(コメンテーター)
 ですから、どうしたら意志が強くなるかということを先生のほうが知っていないと。それを知らないんですよね。もう一つ大事なのが、感情です。感情が強くないといけない。弱いやつはすぐわかる。さっき言ったのっぺりした顔している。無表情なんですね。感情の強いの、うちが成果が上がったかどうかを見るのは、顔を見て判断するんですよ。感情が強くなって、意志が強くなると行動力が出てくるから。この行動力というのが非常に大事なんです。
 知・情・意の3つに分けますけれども、知というのは大した働きをしないんですよね。情と意が大事な働きをするんです。それを知ばっかり、しかも本当の知というのは、思考能力のことですよね。今、偏差値秀才、ものを覚えるばかりという教育をする。しかも偏差値秀才が社会的有利な地位を占められる。だから、思考能力を養うような教育をしないですね。知育・徳育・体育の3つがあるんだけれども。知育というのは、思考能力をつくることです。徳育は人間性を高めるため。これを全然やらないから、だから変なのが出てきちゃうんです。結局、自分の人生も投げ捨てんといかんような、そういう人間が出ちゃうんですね。体育、体育は何の目的だと思いますか。それが文部省がわかっていないから、大学の入試に体育がないんですよね。体育がないから、だれも体育を一生懸命やらない。だから、体育が求めている本来の目的が達成されない。おかしな人間ができてしまう。偏差値秀才ですね。それが官僚になる。司法、立法、行政、特にマスコミ。

○須田(コーディネーター)
 都民の皆さんからもいろいろな意見、事前にお寄せいただいております。事前に発言を希望された方の中から何名かお伺いすることにいたします。
 まず、大谷明さん、お願いいたします。

○都民(大谷)
 まずは今日のテーマですが、小学校3年生以上は小野田自然塾、それから中学生は戸塚ヨットスクール的なことを体験させる。本来は家庭がやるべきですが、今の親御さんは無理だと思いますので、学校で一度きりではなくて、学年ごとに毎学期組み入れて、連動性を持ってやるということです。戸塚先生のところはきちんとしたマニュアルも、それから指導員もおられると思いますので、子供の事情を考慮しながらやれば、まさに大船に乗った感じで大丈夫ではないかと、成長させてくれるのではないかと思います。リスクのあることをするなと言う方もおられますが、これ何もしないのが一番リスクがあると思います。
 それからもう一つ、次代を生きる子供達は、これから世界と向き合うことが多くなるので、日本特有の奥ゆかしさと、控え目さ、そういう日本的よさとそれから外国へ行ったらきちんとディベートができるような、この両方を教育していけばよろしいかと思います。

○須田(コーディネーター)
 わかりました。大谷さんありがとうございます。
 では次の方を指名させていただきます。中島葉子さん、ご意見を聞かせてください。

○都民(中島)
 私が子供を育てるに当たって、多くの育児書や教育の本を読んだり、またプロの教育者の意見を参考にしてきましたが、残念ながらうちの子供には全く通用しませんでした。というのは、子供は親の背を見て育つということで、私自身のあり方が問われている状態でした。そのため、私は自分のあり方を学ぶことになり、いろいろな講習会に出たり、学校めいたところに学びに行きましたが、なかなか日本では学びきれず、最終的にアメリカのヒーリングの学校へ行きました。それまでの私は悪いことが起こると、そういうことをやる人、人が傷つくようなことを言う人が悪いと思っていましたが、それをアメリカの先生は「あなたは全部相手にパワーをあげてしまったのね」と言うのです。「なぜかというと、相手が変わらないとあなたは幸せになれないと言っているのよ」と言うのです。そして、それは実際そのとおりでした。私は、ほかの人が嫌なことをしないように、嫌なことを言わないように、そういうところに自分のエネルギーをたくさん使っていましたから、もともと持っているはずの耐性にエネルギーを回すことなんかできない、そういう状態でした。私にとってその学校は大変良く、今現在、2人の子供ととてもいい関係性を持っています。子供の将来についても、安心して見守ることができます。親のそういう状態が子供にとっても大変良いことで、子供達が社会に出ていって自分を表現するときや、耐性においてもきっと役に立っていると思います。できたら、東京にもそういう学校がほしいと思っています。

○須田(コーディネーター)
 中島さんの声が届くといいですね。最後お一方にさせていただきます。城澤由佳さん。

○都民(城澤)
 東京都への要望をお伝えしたいと思います。戦後教育の見直しは最優先で行ってもらうとして、我が国日本の長い歴史をきちんと教えていくことがこれから必要とされる真の国際人を育てていく第一歩であるはずです。このすばらしい日本の神話や正しい歴史教育、地域とのつながりなどを学べる学校とは別の寺子屋のような教育施設をつくることをご提案したいと思います。京都や兵庫、福島では、自治体で寺子屋開設の支援などを行っています。NPOやNGOではなく、東京都として、正しい国家観と歴史観を持つ子供達の教育をお手伝いしていく都民を支援していただくことは可能でしょうか。具体的には、寺子屋開設セミナーなどを開催してもらって、そのセミナーの優良受講生による寺子屋開設の支援を東京都が行ってもらえると、国家観や歴史観をきちんと持った子供が地域社会の中で育ち、将来的に祖国を思う日本人が日本を支えていくことになるのではないかという希望的観測をしております。ぜひご検討いただければと思います。

○須田(コーディネーター)
 とりあえずお三方だけにさせていただきます。時間の都合もありまして。今日のこの皆さんの発言に関して、都知事もどういう方向へ行ってしまうか、いろいろばらばらだと心配してくれましたが、まとめようがありません。最後になりますが、それぞれ皆様方に感想をお一言ずついただきたいと思います。

○川淵(コメンテーター)
 昔は怖い人がいっぱいいたんですよ。父親であったり、先生であったり。近所の親父さんであったり。先生には両親が畏敬というか、かしこまって敬うという、そういう畏敬の念を持っていた。それが今は全然変わってしまっているわけですね。そういう言い方すると悪いですけれども、一部の先生は生徒にこびるようになったし、両親は先生の悪口を平気で子供の前で言う。そういうことから言うと、先生を敬うということを一からやり直す必要があるというふうに思います。
 それから今の世の中、自分さえよければいいという、自己中心的な考え方が主流で、そういった考え方をどう変えていくのか。世のため人のために生きることが大事なんだ。そして他人に迷惑を絶対かけない。この2つだけでも両親が、あるいは地域社会が、あるいは学校が厳しく子供達を指導していく。そのことが強い耐性の子供を育むことにつながると、僕はそういうふうに思っています。

○田上(コメンテーター)
 親世代が余りにも情報のとり方が携帯やインターネットや、それからゲーム機ということに頼り過ぎて、本を読まずにその情報を非常に受け身でいるわけでしょう。そうすると自分で感じて考えてという情報のとり方ではない。子供達の耐性を培うために、まず親世代ができるのは、携帯を持つなら時間を限るとか、インターネットのメールでやりとりをしていると情報の交換はできても心の交流はできません。戸塚さんがおっしゃっていた体罰に関してはどこまで行っても平行線だと思うんですけれども、今日お聞きしていて、感情についてというお話になったところ、子供達の感情を引き出すのも、やはり親の役割であったり、大人の役割であったりするんですね。そのときにその子供達にはタイプがあると。体育系で体を使って感覚的にいける子もいれば、音を聞いて音楽に目覚める子もいれば。つまり感情というのは決してコミュニケーションという言葉だけではなくて、体を使うとそれも力になるんですね。だからいろいろなことを考えていくと、子供のためにできることはたくさんあり、同時に子供達に背中を見せるというんですか、つまり大人の私達は、やっぱり子供にとっての役割の見本であり手本ですから。だからそういう意味では私はどこまで行っても体罰について思うのは、力の使い方を誤ると、力の使い方を間違ったように伝わると。つまり、大人の私達が問題解決の方法を「これや」というふうに伝えていくと、「それや」というふうに思うということを、最後にお伝えして、また今度いつか機会がありましたら、広げたいと思います。

○工藤(コメンテーター)
 今日は勉強させていただきました。一言言えば、暴力と力みたいな、戸塚さんがおっしゃったけれども、これは本当に違うんだよね。暴力という言語は余り使うという、それ自体はおやめになったほうがいいと思いますけれども。暴力はもっと権力的な構造ですから。言葉というのはもうちょっと厳密に使ったほうがいいというふうに思うところがあります。あと、もう一点だけ。僕は親に子育てとか含めて、価値、核があるかとか、価値基準があるかということをちょっとやっぱり考えたい。僕のところに来る子供達とか大人達は、どうも中心の核がない親に育てられてしまったなというのが僕にとってものすごく重要なことです。ただしその価値基準とか核とは何であるかという問題になると、相当長い時間論議しなければいけないと思うんですけれども、それをどうつくるのかというのは、子供の教育、あるいは育てるときにぜひ教育諸関係の方々は、核とか価値の基準であるとかということをお考えになっていただきたいというのは希望です。

○戸塚(コメンテーター)
 今、子育て中の方、それからお孫さんに影響を及ぼしておられる方、それから学校の先生になられる方、ぜひ考えていただきたいのは、教育論というのは精神論に基づいてつくられるんです。今の教育論は、ヨーロッパ流の精神論、ラショナリズムに基づいてできています。果たしてラショナリズムが正しいのかですね。日本が今まで使っていたのは、いわゆる大和魂。私は理科系ですけれども、理科系の目から見ますと、大和魂は科学なんですよ。進化論になっている。ラショナリズムというのは、あれは非科学です。創造論、神が人間をつくったというところから始まっているから。ですから、理性が正しいという答えが出てくるんだけれども、進化論では理性が間違っているんです。悪というのは、理性の中にしかない。本能が正しい。ですから、ぜひ一番簡単にわかるのは動物行動学ですから、あれを読んでみていただくと、精神というものがよくわかってきますから、子育てをするにも、ちゃんと育てようと思うなら、子育てをするにも教育をするにも、ぜひその知識を身につけておいてほしいと思います。大學という儒教の本がありますが、その中に書いてある「赤子を安んずるがごとし」、赤ん坊を育てるようなもんやと。「心まことこれを求むれば、あたらずといえども遠からず」、本能のままにやれば、正しいよと言っているんです。ですから、しっかりと自分の本能をまずはトレーニングせんといかんのやけどもね。それに沿って、きれいごとは理性ですから、きれいごとなんかで子供に当たってはいかんです。本能でもって、本心でもって当たらないと、これはうまくいかない。相手もそれで応えてくるんですね。よろしくお願いします。特に先生になる人、ちゃんとやってもらわないと、後で影響が大きいんですわ。

○石原知事
 皆さん本当にありがとうございました。教育、躾に関する多岐にわたる論が出たと言えば聞こえがいいんだけれども、ばらばらですな。これ結局、今の日本を象徴していると思いますよ。私は価値というのは確かに多様なものかもしれないけれども、しかし絶対的な価値があると思うんだ。それは時代が違おうと、あるいは立場が違おうと、物の考え方、価値観が違おうと、人間が世代世代で、垂直に継承していかなくてはいけない価値というのは軸というのはあると思いますね。それが日本ではこの頃ぐらぐらしてきた。私がそれを痛感したのは、おととしの暮れです。最初、東京で発覚して、あちこち調べたらまあたくさん出てきたんですが、東京の例は生きていたら111歳になるおじいちゃんが、実は30年前に死んでいて、それを布団かぶせてミイラになるまで放っておいて、年金詐取をしていたんでしょう。この例があちこちに出てきた。こういう人間というのは日本にしかいないね。自分を生んでくれた親が、そのさらに子供、孫が、おじいちゃん、おばあちゃん、血の通った自分の近い先祖といいましょうか、肉親が死んでも、弔いもしないで隠して年金詐取する。こんな人間、アメリカにもヨーロッパにもアフリカにもどこにもいませんよ。私はちょうどそのニュースを聞いたときに、違うチャンネルで、アフリカの象の実態の映画を見たの。象というのは非常に鋭敏な利口な動物で、一族の長老の大きな象が死ぬと、小さな小象までが鋭敏なこの鼻で、遺体に触って分かれ告げるんだ。象のような畜生でも、自分の肉親の弔いはするのに、自分を生んで育ててくれて同じ家に過ごしてきたおじいちゃん、父親が死んで、弔いしないそういう人間というのは、日本にしかいないね。これは本当にいませんよ。こういう国になってしまった。
 その一番の原因というのは、我欲です。何で日本人は我欲に溺れるようになったかといったら、これは緊張感がなかった。ずっと65年間。国家的な緊張を味わわずに、幸か不幸か済んだんだ。その結果、日本人にとってのアイデンティティーは何ですか。テレビ見てごらんなさい。番組が一番よくわかる。我欲、物欲、金銭欲、性欲、本当にそんなものばかりだ。テレビ番組見ていても。こういう国は世界にありませんな。これは本当に残念だけれども、それが教育も荒廃させ、今日の皆さんみたいにてんでんばらばら、言いたいこと言っていく。私にしたら納得いく話は余りなかったな。それは子供はかわいそうだけれども、しようがない。それを育てている親そのものが狂ってきたんだから。そういう時代に私達が本気でこの国を考えませんと、ちょっと私達は厄介なことになりますよ。とにかく垂直な価値観というものをちゃんと受け継いでいく、継承していく、そういう努力をしましょうよ。これはこう逐一は言いませんが、考えればわかることなんだから。

○須田(コーディネーター)
 今日のテーマ、改めて皆さんのそれぞれのメッセージを整理して受けとめるためにもう一言言わせていただきます。「子供の耐性をいかに培うか」、このテーマについて今日は議論いたしました。司会者にありがちな耳に優しい聞きやすい言葉でまとめるのはやめておきます。大きなテーマをみんな背負って真剣に考えましょう。
 今日はありがとうございました。