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平成22年11月4日更新

石原慎太郎は正常か、病的か(日本語訳3)

 独立独歩、日本本位、文学者ならではの扇動力と強い政治力、そして型破りの個人的魅力。この「トラブルメーカー」はしばしば中国や米国の怒りを買っているが、彼が全身全霊を傾けて批判しているのは、他ならぬ日本である。

本誌記者 黄広明 楊瀟  実習記者 徐バイ(「草かんむり」に「倍」)

 横田基地は東京郊外に位置する米国の空軍基地である。1980年代、石原慎太郎が運輸大臣に就任すると、積極的にこの基地の返還を要求し、日を追って多忙となっていた日本航空に新たな空港を切り開こうとした。彼は一度、わざわざ自民党の政務調査会に出向いて説明したことがある。ある副会長が自ら責任者を名乗り出たが、石原をはじめとする誰の意見も報告も受け付けなくなった。「単に米国に配慮しただけだろう、結論を出すには時期尚早だ。」石原は非常に怒り、彼に電話した。「この野郎、次に国会で会ったらぶん殴ってやる。国会内で暴力をふるおうが、司法の管轄外だ。心しておけ。」

 以来、その議員は国会内で石原を見かけるとすぐさま別人の部屋に避難するようになった。
 1999年に出版された政治家としての自伝『国家なる幻影』の中で、彼はこの件に言及している。そしてこの件こそ、最も石原本人の人格―独立独歩、日本本位、文学者ならではの扇動力と強い政治力、そして掟破りの個人的魅力―を濃密に表している。
 石原慎太郎が控えめな人物だと言う人はいない。この東京の問題児は、あらゆるヘッドラインを飾っていた。そして、東京都知事となるまで、彼が官僚制度や政治体制に対して活発に議論するのを嫌う政治家は少なくなかった。彼には全ての問題についての答えがあった。外部の扇動者が内部の問題を見るのは簡単なことだった。石原が東京都知事に当選した時、反対者は国粋主義者なら誰でも知っている相応の罰を受けるべきだと指摘していた。石原本人が認めようとも、この世論政治の世界では、その激しく一匹狼的で冷酷な言葉は常に不利なものである。
 おのずと、その発言には国際的な争議のもとも含まれていた。彼はしばしば中国や米国の怒りを買っているが、彼が全力を尽くして批判しているのは、他ならぬ日本である。

厳格な父の記憶

 1932年、石原慎太郎は兵庫県神戸市に生まれた。父は山下汽船の管理職だった。5歳の時、石原一家は父の転勤に伴い北海道小樽市へ転居。第二次世界大戦の混乱から遠く離れたこの港町で、石原慎太郎と弟の石原裕次郎は最も良い私立小学校に学び、恵まれた少年時代を過ごした。ほどなく1944年には父が再び転勤となり、石原一家は神奈川県に転居。兄弟は父にレジャーボートを買ってくれとねだる。そのため、航海も後日の石原慎太郎の小説によく登場する素材となった。

 スパルタ式の家庭教育で、父権と武力は初めから石原慎太郎の心に深く刻まれていった。『体罰を恐れぬ子供』という文の中で、石原は父親と子供とのこうした接触について「愛人関係よりも密接」な交流であると記している。

 家に帰ると、父は容赦なく「冒険隊」の「隊長」を殴った。私はこの体罰を受けるのが非常に嫌だった。しかし父の広くて大きな手の平に私は父の愛を感じた。その感覚は今でもずっと心の奥底に刻まれている。
 「体罰」は、父がその意図を飾らずに子供に直接伝える行為だった。そこに含まれていた意味は、ほかでもない─愛だったのだ。

 後日に出版された自伝色の濃いエッセイ集『スパルタ教育』の中で、石原は、この本を著した目的は「父親」の立場から子供を育てるための百項目の「法則」を提示することだと記している。彼は、「叱責」と「厳格さ」が子供に美徳をもたらすと信じているのだ。「厳格な父」に対するコンプレックスは拭い去ることができず、石原本人の政治的イメージの源泉ともなった。『スパルタ教育』の中では、彼の父に対する崇敬が述べられている。

 私の父は、船舶業が不景気な時、造船汚職事件の巻き添えにもなり、甲板上でやつれながら奮闘していた。高血圧で二度も倒れたことがある。母は健康を心配し、仕事を辞めて身体をいわわるよう哀願したが、父は何事もなかったように、いつも子供の前で「自分の仕事で死ねるなら本望だ」と言っていた。結果、病気は悪化の一途をたどり、会議中に、文字通り殉職した。
 私は「死」を目にしたことがなかったが、父のこわばった遺体には、自分の仕事へのこの上ない自信と誇りを抱いた無名の英雄の姿が重なって見えた。

 神奈川に移ってほどなく、石原の父は仕事中に心臓病で亡くなった。この死は石原少年にとって非常に重いものだった。父親だけでなく、模範をも失ったからである。父が亡くなって家庭の経済状況は窮迫していったが、剛毅で仕事に尽くす父の姿は、既に石原慎太郎の心の柱となっていた。後日の激しい言動は、ここに基づいているのだ。
 父の影響を受け、「自らの仕事のために死ぬ」ことが、石原慎太郎の一つの理想となっていた。そうした追求は悲劇の星に照らされたものであるのだが。

青春―無敵の「太陽王」

 父親が亡くなり、長子である慎太郎は一家の主となった。そしてこの頃、弟の裕次郎が都内の裕福な家庭の子息とつるみ始め、パーティーに興じたり、トラブルを起こしたりして、ややもすると警官と衝突までしていた。慎太郎は厳格な父の役割を演じ、弟をしつけ、限られた救済金で暮らす母に協力せざるを得なかった。

 若い頃の生活経験は創作の題材となった。弟と友人達の自由奔放な生活を原型に、中編小説『太陽の季節』を創作。1955年の秋、23歳の石原慎太郎は『太陽の季節』で日本文学の最高峰である芥川賞を獲得。この時、石原はまだ一橋大学の三年生だった。

 『太陽の季節』は戦後日本の反逆的な青年の怒りと自堕落な暮らしぶりを描いている。ドラマの舞台はバー、レジャーボート、旅館、豪邸。一群の裕福な青年達の愛の追求と身勝手さから、ヒロインが堕胎手術に失敗して死に至るという結末を迎える。主人公が彼女の葬儀でその親戚に責められた時、その内心の台詞はなおも「お前らにわかるものか!」だった。青年の困惑がドラマの全体を覆っている。

 その時ちょうど日本は敗戦の荒廃から立ち直って再興する時期だった。一瞬で時代が変わり、迫り来る消費時代が欲望を噴出させた。このギャップについていけない青年達は寄る辺をなくし、親世代の教育に対する裏切られた感覚と疑いが彼らの普遍的な心理となっていった。

 「つい数カ月前まで、先生達は天皇を“神”だと言い、その写真に跪かせた。そして米国人は人ではない、鬼畜だと教えられた。それが突然、まるで気に掛ける様子もなく完全に相反することを言い出した。それまで全く言っていなかった考えだ。ごくあたりまえのように、口裏を返して、天皇は人であり米国人は友人だと言うのだ。」石原と同世代の作家である大江健三郎は、敗戦の時、親世代の人が突然変貌したのをでたらめだと感じたという。石原の敗戦に対する追憶も、そのようなものだった。「戦争中は、天皇のために死ぬことは光栄であると教育された。なのに、続いて教えられたのは懺悔、民主主義、対米重視ばかり。大人達が薄っぺらな、うそつきに見えた。」

 芥川賞受賞に関して、他の作家達からは、この「わがままな青年の猥褻文学」に栄誉を与えるのは、芥川賞に対する冒涜であるという反駁もあった。しかし『太陽の季節』の中で、石原慎太郎は釘を刺していた。「大人達」の追想する伝統を鼻であしらっていたのだ。
 どれほど論争を重ねても、売上げの数字に敵うものではなかった。『太陽の季節』は1年のうちに30万冊近く売れ、戦後の小説の記録を作った。のちにこの小説は映画化され、兄弟が自ら出演している。まさにこの映画によって、石原慎太郎が若者のアイドルとなったのだ。彼のフォロワー達は「太陽族」を名乗り、作品中の裕次郎をまねてアロハシャツ、幅広のズボンと二色の靴を身につけた。ヘアサロンは登場人物の髪型から「慎太郎スタイル」と命名したもので繁盛した。以降、兄が脚本を書き弟が出演する形で、石原兄弟は続々と十数本の映画を作り、日本の怒れる青年達のアイドルとなった。弟の裕次郎はそうしてスーパースターになったのである。

政治への道

 60年代の初め、石原慎太郎の生活は多忙を極めていた。何本もの小説、脚本を生み出し、原稿料日本一の連載作家に。映画監督にもなり、芸能プロダクションを経営。レジャーボートで北極へ行き、バイクで南米を横断。その経験を綴った回想録はベストセラーとなり、著名人かつ大衆のアイドルにふさわしい生活を送った。
 1966年末にベトナムへ行った経験が、文壇から政治へとの転換点となる。
 「政界に身を投じようと決めたのは、その国の戦争に思うところがあったからだ。」石原慎太郎は政治家としての自伝『国家なる幻影』の中でそう述べている。1966年の末、読売新聞の委託によりベトナム戦争を現場取材。ベトナムの首都サイゴンで彼が見たのは、ベトナムの民衆と知的エリート達が戦争に対して「全くの無関心、かつ冷笑的」な態度でいることだった。彼は自伝の中で、「あの国は近いうちに共産主義化すると確信した。また、教養の高いベトナムの知識人と日本の知識人は、政治姿勢において互いにとても似通ったところがある」と記している。彼は日本国内の反戦ブームを連想した。日本の各政党・党派が緊張状態にあることで、彼は国家の前途を憂えるようになったのだ。
 後日の取材でその過程を思い出した彼は、この時、日本がベトナムの後を追って共産主義国家に成り果てるのではないか、心配になったのだと語っている。政界に足を踏み入れる前から、石原は明らかに自民党を認め、左派を憎む立場をとっていた。
 1955年から1970年の自民党政権期間、日本国内では国際情勢の変化に従って政治対立が次から次へと湧き起こった。国内の左右勢力は米国に強制された「民主―平和」の体制をめぐって駆け引きを続ける。右派は「改憲―再武装」を主張。憲法の平和条項が日本の国家主権の足を引っ張っているとし、日米の平等な「同盟関係」を確立すべく憲法を改正しなければならないと主張した。左派は、「護憲―平和主義」こそが冷戦構造下における日本の生きる道であるとして、米国の勢力が東アジアで拡張するのを批判するだけでなく、平和憲法の維持を望んだ。再び戦争に巻き込まれる事態のみを恐れていたのである。1960年、岸信介内閣は日米安保条約の改正を強行し、同盟関係を継続した。これにより大規模な社会抗争が勃発。日本国民は戦争を恐れるだけではなく、平和民主体制と国家主権の統一をも必要としていた。こうした矛盾の中、日本国内では反米反戦ムードが高まっていったのである。
 石原慎太郎は、初めからはっきりと自民党の同盟継続路線を認めていたが、国会で民意を顧みず強行採決する手法には反対していた。彼は、大衆が盲目的に反米と安保継続反対に狂う風潮を批判し、進歩的な知識人の愚かさをなじる文を書いた。彼からすると、「彼らの愚かさは、民主主義という絶対的な方針を強制して日本を統治した米国に対してのもの。その時対立していた別のイデオロギーによる社会主義体制に対して無意味な幻覚が生まれたのは、無意識下での屈服と意識上の反発のせいだ」。ベトナムでの経験から、彼は日本に「自由主義が侵食され崩壊する日が来る」ことを連想した。彼は自伝の中で、政治に参与する意思の萌芽を振り返り、「こうした事態が生じるのを防ぐため、私自身が行動を起こすべきなのではないか」と記している。
 1968年、つまり石原がベトナムから帰国した二年後、自民党の支持と大スターである弟の力のもと、石原慎太郎は三百数万票という記録的な得票率で参議院議員に当選。四年後、衆議院議院選挙に出た時も同様につつがなく当選し、八回連続で当選した。内閣で環境大臣、運輸大臣を歴任し、1999年に東京都知事に当選して以来、三期連続で知事を務めて現在に至る。石原慎太郎に関するメディアの報道からは、この天下のトラブルメーカーと順風満帆な政治人生とは結びつけがたい。事実上、この挑発者は初めから政治の系譜上に自らの正確な立ち位置を見いだしていた。
 わめくばかりで無為に過ごす政治家とは違い、石原慎太郎は、政界に入ったその時から、はっきりとした自分の政治主張を持っている。参議院議員選挙の際、彼は「体制内での革命」をスローガンに掲げていた。現存の体制に対する反抗ひいては革命も、確実に彼の政治人生を貫いている。左右両派が日本は核兵器を所有すべきかを激論している時に、彼は原子力エネルギーの開発を重要な政見として主張していた。原子力エネルギーの開発後に兵器へ展開するかどうかは、全国民の公の投票に託したのだ。彼からすると、米ソの脅威に対抗できる、この方法こそ「平和」を目標とした選択なのである。
 これこそが石原慎太郎である。彼はいつも個人と国家、平和と武力を無理に関連づけることができるのだ。彼にとっては、政治も文学も言葉により表現しなければならぬものである。

 この知事は決して控えめな人物ではない。新聞のトップ記事を飾らないことなど一度もなかった。知事になる前、彼は反感を買うリスクを冒して、官僚制度と政治体制に対して活発に論を発表した。2000年、自衛隊に対する演説の中で、彼は9月に自然災害(大地震など)に対処するための大規模な応急訓練を行うと告げた。彼は自衛隊に、「三国人」が自然災害の後に暴動を起こすのを防止するよう警告。「三国人は何度も残虐な罪を犯してきた」と発言した。その評論は事前に準備しておいたもので、即興の演説ではない。彼が使った扇動的な語句「三国人」は、日本が半世紀を費やして克服しようとした外国への恨みを再燃させた。三国人とは、字面の意味では「第三国からの人」であるが、第二次世界戦争の開戦前後に台湾、朝鮮から日本に来て戦後に追い払われた労働者を軽んじた表現である。石原がこの語句を用いたことの危害は想像しがたいものだった。1923年の関東大震災後、証拠もないのに、在日朝鮮人が井戸水に毒物を投入し、店や住宅を放火・略奪したと告発された。こうしたデマが広がるにつれ、数多くの朝鮮人が拘束されて日本の暴徒に殺害された。
 「修辞の剣」の扱いに長けた石原慎太郎は、極端な反米反中発言で悪名高い。しかし本当に驚異的なのは、石原がこの国で最も人気のある政治家かもしれないことだ。
 極めて強い挑発の意味合いを持つ「三国人」言論事件に関して、東京都庁が受け取ったコメントは電子メール、ファックス、郵便物など6085通にものぼった。知事を支持する声が70%を超えていたという。後日、日本最大の日刊紙『読売新聞』が石原支持の社説を発表した。「日本には二人の英雄がいる」と東京にほど近い市川市の代議士は言う。「一人は東京読売巨人軍の長島茂雄監督。もう一人は石原都知事だ。」彼の荒々しい個性はもしかすると公衆の日に日に高まった不満の化身なのかもしれないし、あるいは彼が扇動の武器としているだけのものかもしれない。彼が東京都知事を務めている間、日本経済はちょうど十年の不況を経験した。彼は大銀行、大きな政府、大会社に矛先を向けた。
 民衆は彼が改革を願っていると信じ、一切の代価を惜しまなかった。いずれにしても、政治屋として、彼には巧みに公衆へ溶け込み、民意の目覚めをいち早くつかむ能力がある。

 行いは荒々しいが、彼が現実性と創造力を兼ね備えた知事であることは事実が証明している。石原は他のポピュリストとは異なり、自分で計画した日程通りにことを進める。彼は知的でよい教育を受けているため、その右翼思想はかなりの人口を引きつけている。日本では賭博は違法行為であるが、彼は税収増のため東京湾岸にカジノを建設する計画を宣言した。空気の質を改善するため、ディーゼル車が東京を通行することを禁止するよう提案。東京の財政赤字と債務の膨張に照準を合わせたこともある。公共住宅と公共工事の大幅な削減を呼びかけ、都市予算と公務員給与を三分の一近く削減する計画を出した。彼は東京都が一部の財産を売却するよう望んでおり、都が貸し出している知事公邸までその対象としている。
 最も巧みだったのは、2000年の財政部門に対する攻撃である。地方自治体が一定の税金を徴収することは、国の税法で認められている。石原慎太郎はこの知る人が少ない規定を利用し、東京で営業する大銀行の利潤に対して3%の課税を導入した。この税により見込まれる収益は年間10億ドル。東京の財政赤字を解決するのが目的だった。当時、日本の民衆は不況で疲弊していたが、大銀行は依然として十分に儲けていたのである。これぞ典型的な石原のやり方、民衆の銀行に対する不満を利用して攻撃を起こしたのである。「この手の論調は得意です」彼の息子であり政治上の知己である衆議院議員の石原伸晃は言う。石原慎太郎の急進的な計画は、市民にも彼らの力を発揮できることを意識させることとなった。彼の改革が成功したなら、権力を中央政府から家庭、都市、地方へと移転し、国家の運営メカニズムを徹底的に変えることができるだろう。彼を首相に推す声さえある。東京を治められるなら、日本全体を治めることも不可能ではない、と。
 しかし、石原慎太郎のようなポピュリストが日本の議会制度において首相に選ばれることはない。石原自身も認めているが、過去の圧倒的な期間、日本の議会は慎重な自民党が抑えていた。その場では、味気ない政治屋がどん底から段取りを踏んで上がっていく。彼らが想像を超えるような行為をすることはありえない。それが地方では、民衆が支持する首長が投票によって生まれるのだ。石原慎太郎の前にも、コメディアン、スター、有名人候補者はずっと有権者達の期待を集めていた。彼にはほぼ全ての問題についての答えがあった。外部の扇動者が内部の問題を指摘して民心を得るのは簡単なこと。ただ、荒々しい個性と冷酷な言葉のため、彼がより高い政治の舞台に送り出されることはない。いずれにしても、彼が気に掛けているのは東京の問題だけではない。彼が好む問題には、日本の外交政策や世界における地位というものもあるが、知事という職にあっては、たまに中国と米国の問題に対して口から出任せに発言するぐらいしか機会はない。

「愛国主義者」―反中と反米の背後にあるもの

 「修辞の剣」の扱いに長けた石原慎太郎は、おそらくこの国で最も扇動性を持ち、また最も論争を呼ぶ政治家である。1989年から1995年の間、石原慎太郎は4冊の政治評論集『「NO」と言える日本』、『それでも「NO」と言える日本』、『断固「NO」と言える日本』、『宣戦布告「NO」と言える日本経済』を続々と出版した。この一連の作品では、日本は米国に対する阿諛追従をやめ、米国からの不合理な要求にノーと言う勇気を持つべきだというメッセージを発している。
 彼は多忙な外交官でもある。彼は蒋介石の葬式に参加したこともある。李登輝と仲が良く、ダライラマを執務室の見学に招待したこともある。また、彼は行動派でもある。日本の首相による靖国神社の参拝は、ずっと日中関係の障害になってきた。これについて彼は『産経新聞』で天皇に宛てた公開書簡を発表し、「私は毎年8月15日に靖国神社を参拝します。日本の敗戦60周年である8月15日には、天皇陛下におかれましても靖国神社を参拝されるよう切に望みます」と記している。
 日中がより敏感になっている釣魚島問題でも、彼はよく動いている。1978年、石原慎太郎は青嵐会メンバーと、日本側として初めて「魚釣島防衛」を持ち出した。十数名の大学生を募って釣魚島の南東に灯台を築いたのである。2005年5月には中国の反日感情が高まる中、石原は民主党の枝野幸男議員と共同し、自衛隊を釣魚台に駐屯させて主権を守るよう日本政府に求めた。しかも5月25日には、戦略的価値がある「沖ノ鳥島」へ国旗を掲げた船で乗り付けた。島の上で国旗を振りかざし、土地に口づけしたのである。他にも、絶えずメディアに話題を提供している。雑誌『プレイボーイ』の取材に対しては、南京大虐殺の被害者数が誇大化されていると発言。『タイムズ』の特別取材では、2008年の北京オリンピックを排斥するよう呼びかけた。理由は2004年にサッカーのアジア杯で日本チームが中国サポーターに攻撃されたためである。
 往時の文人「太陽王」は、隠喩を利用して間接的な現実批判をするにとどまっていたが、後の政治家・石原慎太郎はよりはっきりと声明を出した。日本には独立独歩の精神と自信が必要だ。日本は自ら主張する必要がある、と。1980年代の末、『「NO」と言える日本』は日本で二百万冊ものベストセラーとなり、米ワシントンでさえもセンセーションを巻き起こした。書中では、日本は世界でも技術的に優位であり、日本の半導体なくしては米国の原爆も直線飛行することができないと主張している。石原は、日本はこの技術上の優位性を利用して、あるべき地位を獲得せねばならないと考えているのだ。日本はもう、米国の後に付き従う必要はないのだと。

 戦争の痛みの体験が少なかった石原慎太郎には、日本が米国の後に追随することが耐え難いのだ。戦後、日本の思想家は、大多数が日本の再建を助けた米国への感謝と戦争の罪悪感から抜け出すことができなかった。彼らはほぼ保守的で、米国との関係を間接的に記す傾向があった。彼はそうした小心翼々とした考えを日本の捨てるべき奴隷根性だと喝破したのだ。日本がどうして米国に対して貿易で譲歩するのかと問われた際、彼は「戦後の荒廃の記憶にとりつかれているからだ。官僚や政治家は、米国が日本を復興してくれた恩義があまりにも大きいと考えている。日本は恩に着ており、米国人が不合理な挙動をした時ですら黙認してしまうことがある」と答えている。第二次大戦後のまちがった教育により、日本はあるべき自負心を失ったと、彼は指摘する。彼にしてみれば、人格化する国家には自己主張が必要である。強烈に自身の意見を表明せねば国家の尊厳はなく、他国からの尊敬を得ることもできない。「福沢諭吉は明治時代の人々の勇気を代弁する形で、“独立の心なくして、心から国を思うことなどできようか。独立心なき立国は公的なものではなく、私的なものにすぎない”という雄壮な話をしている。我々は自らのため、それを取り戻すべきなのだ。」それが石原慎太郎の下した決意である。

 彼に貼り付けられた「ナショナリズム」のレッテルに対して、彼は「それは米国人の傲慢だ」と返している。「日本人には自分で世界の理想を決める能力がない、と彼らは思っているのか、望んでいるのだ。」メディアと向き合い、彼は慎重に、「独立独歩」の姿勢で日本に対する自信と心からの愛を解釈してみせた。彼はまた、日本民族は優秀な民族だとも語っている。彼からすると、日本は黄色人種が設立した近代で唯一の軍事産業国家である。欧州の近代史において、日本は唯一の異端的な存在とされている。欧州の勢力を衰退させ、約三百年間にもわたって世界を制覇した欧州文明を終結させたのだ。彼は、その結果、白人が日本を拒み続けているのだと確信している。

 石原慎太郎の理念における反米と反中はいつも互いに交錯しており、互いに隠し合っていることすらある。彼は、日本がまず被害者なのだと信じている。「一般的に、米国人は原爆で何人が死んだのかを知らない。その後遺症で死んだ人の数も分かっていない。」彼からすると、米国の投下した原子爆弾と日中戦争中の拳銃や機関銃は同列に論じることができない。「それは別の問題だ。」彼はまた、南京大虐殺の虚構説について何度も議論している。一方では、中国に対し、決して虐殺を否定するものではないが、被害者数30万人という数字は完全に誇張であると思っていると語っている。もう一方では、米国と日本との戦争中に犠牲になった生命はもっと多いとも提起しているのだ。
 こうした自己防衛ロジックに従うと、欧州の近代主義における国家には、植民地を奪い取るか植民地となるかの選択肢しかなかった。日本が他国を侵略したのは、植民地化を免れるための致し方ない行為だったろうと言うのだ。これは石原慎太郎の詭弁なだけではなく、日本の右翼が第二次大戦に言及する時の常套句である。明治維新以来、日本は何度も西洋に溶け込もうとしたが「正常な国家」にはなれなかった。その後、アジアの隣国も東南アジアの弱者から抜け出し、力を蓄えて日本との指導権争いを待つばかりになった。このため、石原にとっては、西洋と中国に同時に挑んでこそ、日本は世界において自己の位置を改められるのだということになる。

 冷戦の終結と中国の改革開放に伴い、共産世界と自由世界という二元的論法はたちまち意義を失った。石原慎太郎の反中目標も、反共産主義から中国脅威論へと転じている。1995年、マレーシアのマハティール首相と共著の『「NO」と言えるアジア』の中で、彼は中国が集権国家の分散から多族の共和に変わると予言している。彼はかつて何度も中国の軍拡を非難してきた。2000年8月にドイツの『シュピーゲル』の取材に対し、「中国は最大の脅威」と発言。2001年9月の訪米時には、中国がアジアで「拡張帝国」の建設を企んでおり、アジア全体を支配しようとしていると非難した。2005年11月にワシントンを再訪した際には、演説の中で「米中が開戦すれば、米国は必ずや敗れる。」と話している。「戦争は結局のところ生命の消耗だが、中国は生命を尊重しない価値観だ。公民社会を持つ米国は公民の決定に頼っている。だからいったん消耗戦に突入したら、きっと中国には抵抗できない。」そのため石原は、米国が中国に対して経済封鎖をとり、軍事の拡張を制止するべきだと主張している。彼は最後に、中国が核戦争を発動しうると強調した。もし米中間に紛争があったら、中国はおそらく最も目障りな日米安保体制を除きたくなる。その時に中国の核弾頭が狙うのは沖縄ではなく、東京だ!」中国の国力が飛躍的に増加したのに伴い、石原は米国に対する挑発的な態度を改め、次第に日米同盟関係の修正を強調するようになった。共に中国の飛躍を防ぎ止めるよう求めるように変わってきたのである。

 石原慎太郎はいつもこうして時代の変化について行き、あらゆる機会や話題を捉えては他国へと声を上げてきた。ただ彼は飽くまで、「私は排外的なのではない、国を愛しているだけだ。」と主張している。
 広大な歴史の背景によって、石原慎太郎の急進的な行為を理解する手がかりがいくつか得られるとしても、推論だけで時代が彼の目の前に押しつけた「こうでなければならない」選択肢だと断定することはできない。彼は文学者の修辞で全てのほころびを補い、一方で共産主義の個人に対する圧政に反対し、もう一方では軍国主義の神風決死隊を謳歌した。石原慎太郎のいわゆる存在主義を起点にすると、彼は「国家」と「自己」の要を同一のものとしている。それが一体、彼の深みなのかそれとも詭弁なのか、見分けることは難しい。
 1999年8月に漫画家の小林よしのりと対談した際、石原は個人の「感情の生活」が形成された頃のことについて述べている。

 日の入りの頃、私は同級生や予備軍達と、滑走路の側でわくわくして待っていた。突然、戦闘機が飛んできて緊急着陸した。私達はみんなで駆けつけて、けがをした乗組員が降りるのを手伝った。過去何回もその日を思い出したが、決して悲しみを感じてはいなかった。あれは感動の瞬間だった。私は国と共にあると心から深く感じるのを待っている。それが今、もし私が死んだら国も消滅してしまうように感じている。日本は私の体内にあるのと同然に、私と完全に一体化しているのだ。

 石原慎太郎の日本に対する愛を疑うものはいない。論争となるのは、この愛が正常なのか病的なのかというところだ。

参考資料

  • 『国家なる幻影―わが政治への反回想』 石原慎太郎著
  • 『何が正常で、国はどうあるのか―石原慎太郎に近付く国族の叙事』 庄雅涵著