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報道発表資料  2019年02月15日  教育庁

[別紙]

新指定候補の文化財

旧小出邸(きゅうこいでてい) 1棟

南面外観の写真 応接室の写真
南面外観 応接室

 

平面図の画像1
1階平面図

種別

東京都指定有形文化財(建造物)

所在地

小金井市桜町三丁目7番地1 江戸東京たてもの園内

所有者

東京都

構造形式及び大きさ

木造2階建、宝形造、桟瓦葺、建築面積121.07平方メートル

本件は、『桂離宮』等の著作もあり、茶室の研究と設計で著名な建築家・堀口捨己(1895年-1984年)が最初に手掛けた住宅建築である。実業家の小出収(1865年-1945年)・琴夫妻の隠居所として計画され、文京区西片の閑静な住宅地に大正14年(1925年)に竣工した。収の没後も小出家の子孫が所有していたが、平成8年に東京都に寄贈され、平成10年(1998年)に現在地である江戸東京たてもの園内に移築された。改造部分は少なく、良く保存されており、移築に際しては、敷地の高低差も含めて情景の再現がなされている。
堀口は、東京帝国大学工学部建築科在籍時に「分離派建築会」を結成し、日本におけるモダニズム建築運動の先駆けとなった。大正12年のヨーロッパ視察旅行直後に設計された小出邸は、桟瓦葺の急勾配の大屋根に広いフラットルーフ付きの白い箱を嵌め込んだデザインで、オランダ建築、特にアムステルダム派に影響を受けている。南面を大きなガラス窓とするモダンな外観の内側には縁側付きの和室(寝室及び座敷)を配し、小さく突き出た玄関ポーチ周辺の、丸窓や煉瓦風タイル、工具跡を残した腰板等の仕上げは素朴な装飾である。また玄関脇の応接室の意匠に特徴があり、格天井や杢目(もくめ)の美しい吊り棚、吊り棚周辺の銀箔押し揉み紙を貼った壁等に感じる日本の伝統建築的な要素と、格天井の割り付けに沿って大胆に分割した壁面、ストーブ置場の色鮮やかなタイル、赤色と黒色の家具等の強い配色等のモダニズム建築的な要素が表れている。
旧小出邸は、近代の日本を代表する建築家の一人である堀口捨己の初期作品であり、日本的モダニズム建築の萌芽がみられる作品として貴重である。堀口は、日本の伝統建築との融合を模索し、日本的モダニズムの先駆けとなった。日本のモダニズム建築の発展過程を示す実例として建築史上重要である。

旧三井家本邸(きゅうみついけほんてい) 1棟

外観の写真 平面図の画像2
外観写真 1階平面図

種別

東京都指定有形文化財(建造物)

所在地

小金井市桜町三丁目7番地1 江戸東京たてもの園内

所有者

東京都

構造形式及び大きさ

木造及び鉄筋コンクリート造2階建、入母屋造、桟瓦葺、土蔵附、建築面積328.20平方メートル

本件は、日本を代表する財閥であった三井北家(総領家)の第11代当主八郎右衛門高公(1895年-1992年)が、昭和27年(1952年)に麻布笄町(現港区西麻布)に建設した邸宅である。松阪出身の三井家は、江戸期は京都油小路(現京都市中京区油小路通二条下ル町)に、明治以降は東京に本邸を構えた。高公の父・10代高棟(たかみね)(1857年-1948年)が明治39年に麻布今井町(現港区六本木2丁目)に広大な本邸を建設したが昭和20年に戦災焼失し、そのため油小路邸ほか高棟が建築した邸宅の一部を集めて再建された。平成10年(1998年)にはこの新邸の主要な部分が江戸東京たてもの園内に移築され、併せて景石等も寄贈されて庭園も含めた情景再現がなされている。
新邸の中心となる客間及び食堂は油小路邸の小書院を再構成したものである。油小路邸の完成は明治30年頃で、高棟は、天井が高く洋館の代用として利用できる書院造を選んでいる。床の間や付書院を備え、室内の意匠は高棟自らが桂離宮を始めとする名建築を見学し好みに合わせ誂えた。障壁画、天井の摺箔(印金)裂地等の上質な装飾も良く残されている。また駿河町越後屋の絹蔵であったと伝わる土蔵と、昭和39年には高棟が晩年を過ごした大磯城山荘(神奈川県大磯町)から画室・望海床が移設された。城山荘の各建物は、全国の古社寺から不要材を集めて利用するという高棟の方針に基づいていた。
旧三井家本邸は、近代的な財閥の統率者となった10代高棟の建築を、高公が再構成したものである。高棟は、椅子式で洋風の生活様式を取り入れつつも、建築様式は伝統的な和風を基調とし、建築手法を駆使して独特な和洋の融合を追及した。日本を代表する旧財閥家本邸としての風格を留める、質の高い近代和風建築として貴重である。

青梅(おうめ)のフセギのワラジ

ワラジの写真1 ワラジの写真2
岩蔵のフセギのワラジ 谷野のフセギのワラジ

種別

東京都指定無形民俗文化財(風俗慣習)

所在地

青梅市岩蔵地区、谷野地区

保持団体

岩蔵フセギのワラジ保存会、谷野フセギのワラジ保存会

フセギとは、疫病や悪霊が村の中に入って来ないように、あるいは村の中にある災厄を村の外に追い出し、再び侵入しないようにすることを目的とする行事である。村人が協力して注連縄やワラジ、藁で編んだ蛇などを製作して村境に吊るし、自分たちの生活の場を守る災厄払いの行事である。ワラジを吊るす理由は、大きなワラジを履く強大な神が村を守護しているかに見せかけ、村へ侵入しようとする悪霊を威嚇し、退散させることを目的としていたとも言われている。こうした習俗がいつ頃から行われていたかは判然としないが、地域に伝わる伝承や青梅市内他地区の文献史料によれば、遅くとも江戸時代後期には8月1日の八朔の日に行われていたという。
岩蔵では「お精進」と呼ばれ、現在毎年7月下旬の日曜日に行われる。40センチメートルほどの大きなワラジを6つ(3足分)、ワラジの中程にサイコロの1から6までの目の如き穴を開けて編み、御札と共に竿に吊るす。製作されたワラジは、小布市との境に2か所、古武士との境に1か所、富岡との境に2か所、成木の中里との境に1か所の、計6か所に1つずつ吊るす。幾つの穴のワラジをどこに吊るすという決まりは無い。
谷野では毎年8月第1日曜日に行われる。40センチメートルほどの大きなワラジを、ワラジの中央に四角い穴を一つ開け、竹に縛り付けたものを8本作る。ワラジは、十王堂に1か所、塩船との境に1か所、大門との境に1か所、今寺との境に1か所、木野下との境に3か所、小曽木との境に1か所の、計8か所に1つずつ吊るす。
このような災厄除け等の祈願のためにワラジを製作して旧村境に吊るしているのは都内では当地のみであり、都民の生活文化を示す風俗慣習として貴重である。

洗足池公園(せんぞくいけこうえん)

公園の写真1 公園の写真2
洗足池公園(空撮) 洗足池公園(池月橋付近)

種別

東京都指定名勝

所有者

大田区、公益社団法人洗足風致協会、洗足八幡神社、星頂山妙福寺、大田区土地開発公社

所在地

東京都南千束二丁目1番4号 外53筆

面積

79,260.71平方メートル

洗足池公園は、清水窪湧水などを集めた溜め池を中心に、周遊園路や公園整備された区立公園である。北側には松山、桜山に代表される樹林帯、昭和9年(1934年)に造られた弁天島がある。東側には桜広場や勝海舟夫妻墓などの歴史的な広場が整備されている。また、源頼朝が愛馬池月を得たという伝承のある千束八幡神社、日蓮が袈裟をかけたという伝承の松や国登録有形文化財(建造物)祖師堂(旧七面大明神堂)のある妙福寺などが近接している。なお、池の名も日蓮が足を洗ったことにちなむといういわれがある。
このように洗足池は、古くから中原街道沿いの景勝地として知られ、江戸時代には、歌川広重「名所江戸百景・洗足池袈裟懸松」に描かれるなど、江戸近郊の行楽地、景勝地として広く親しまれていた。また、明治時代には勝海舟がこの地の景観を好み、池の東側に別邸を建てて、晩年を過ごしている。なお、没後、海舟関係の図書の収集・閲覧や講演を行っていた建物の国登録有形文化財(建造物)鳳凰閣(旧清明文庫)があり、現在整備が行われている。
洗足池は、周辺が農村であったころは農業用溜め池として利用されていたが、大正時代以降周辺の都市化により宅地化が進んだ結果、その役割を終え新たに都会の水辺の憩いの場として親しまれることとなった。昭和5年(1930年)に地元の協力を得ながら緑地や水辺を維持する「風致地区」という制度が設けられ、その後、社団法人洗足風致協会(現 公益社団法人洗足風致協会)が設立し、環境整備などが行われてきた。昭和39年(1964年)に都立公園を経て、平成2年(1990年)に大田区立公園として維持管理されている。長年、風致地区として規制等がかかっていたこと、現在も風致協会の尽力や区立公園として整備されていることもあり、江戸時代から浮世絵に描かれている中原街道から北へ望む景観は、近景、遠景が整っており、23区内にありながら景観が保たれている公園である。

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